8月25日に放送される『消えた天才』にて、今年の甲子園で話題になった大船渡
高校の佐々木朗希投手の高校野球の投球数問題について、約30年前にも同様に話
題になった大野倫さんが紹介されるそうです。
そしてなんと大野さんは甲子園前の予選も含め1人で1200球以上を投げて、甲子
園が人生最後のマウンドとなってしまったというのです。そこで今回はそんな、
大野さんについて見ていこうと思います。
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・大野倫のプロフィール
本名:大野倫(おおのりん)
生年月日:1973年4月3日(46歳)
身長:185cm
出身地:沖縄県うるま市
・大野倫は消えた天才!大船渡高校の佐々木朗希投手の球数制限問題の“元祖”
今回、番組に大野さんが取り上げられるにあたり、さまざなメディアでも話題に
なっていました。こちらがその記事です。
大阪代表・履正社高校の初優勝で幕を閉じた高校野球。今大会で最初に話題に上がったのは令和の怪物・佐々木朗希投手の“球数問題”だったかもしれない。県予選決勝の登板を回避したことが問題となり大論争にまで発展。しかし、今から約30年前に佐々木投手をはるかに上回る投球数で社会的な波紋を呼んだ天才投手がいた。その天才投手が25日放送のTBSのドキュメントバラエティー「消えた天才」(日曜後6・30)に出演し、当時の思いを語る。
その天才が県予選から甲子園決勝まで投げぬいた球数はなんと1266球。彼と同じ舞台で戦った元プロ野球選手の黒木知宏は「同級生ではスーパースター」「伝説の投手」と、衝撃を受けた過去を振り返る。また、PL学園時代に春夏連覇を果たした桑田真澄氏も「不屈の天才」と絶賛。天才が残した6試合連続完投の偉業を称えた。
その人物は3年でチームの絶対的エースに成長し、母校を甲子園決勝の舞台まで導いた。しかし、登板過多の影響もあり決勝では大敗。さらに天才はこの大会以降、二度とマウンドに上がることはなかった。投手生命が絶たれたことで、天才が投げぬいた球数は大きな物議をかもした。
そして番組では、天才にその騒動の真相とともに、マウンドに立ち続けた思いを聞く。「自分の野球人生が終わってもいい」と語った天才の真意とは。そこには、天才が幼い頃から抱き続けた、ある特別な感情があった。引用元:スポニチ
かなり気になる内容ですね。
確かに今回の甲子園では、佐々木朗希投手の投球数問題について様々な論争が繰
り広げられ、あのメジャーリーガーのダルビッシュ投手と張本氏さんのちょっと
したバトルも話題になりました。本当にこの問題については難しいところではあ
りますが、やはり今は時代的にも選手の将来を見据えたやり方の方がいいのでは
ないかと個人的には思います。
・大野倫、甲子園が人生最後のマウンド!なぜ?
こちらについてはすでに上述したように、大野さんは県予選を含め甲子園の決勝
戦まで1人でマウンドを任され、投球数1200以上を投げ、それを最後にピッチャ
ーとしての人生は終わってしまいました。
しかしながら、その後は大学に進学し外野手に転向、野手としても才能を発揮
し、1993年2月には最年少の日本代表メンバーにも選ばれ、アジア選手権にも参
加されました。
そして、1995年のドラフト会議にて巨人から5位指名を受けてプロになり、2002
年までプロ野球選手として活躍しました。
大野さんに関しては、もちろんピッチャーとして甲子園後できなくなったのはシ
ョックだったでしょう。しかしながら野手に転向して、プロになれたのは不幸中
の幸いともいうべきで、やはり普通はこううまくはいかないものです。そのよう
なことを考えても、たとえ監督といえども一人の選手の選手生命に関しては、慎
重になるべきだと思います。
・まとめ
今回は、
『大野倫は消えた天才!甲子園が人生最後のマウンド!なぜ?
大船渡高校の佐々木朗希投手の球数制限問題の“元祖”【消えた天才】』
について見ていきました。
8月25日放送の『消えた天才』では他にも気になる人物も紹介されるそうなの
で、そちらも楽しみにしたいと思います。
<8月25日放送 消えた天才関連記事 >
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